御仮屋

今の行政庁にあたるもので、5人の合議制で執務が行なわれていた。
薩摩藩は、他藩に比べて士族数が極めて多く、26%ほどでありました。(全国平均は、6%だったそうです。)
徳川幕府は、一つの藩に一つの城しか認めないという一国一城制を敷きましたが、薩摩藩では士族の多いことを理由に、藩士はそのまますべて従来の外城麓に住まわせて、中世と同じように半農半士の生活を送らせました。
城は消えても、軍事組織はそのまま残して「人をもって城となす」という政策をとりました。
これを外城制度といい、地方行政組織の役目を果たしました。
薩摩藩では、113の外城があり、外城の中心に郷士を住まわせました。
(麓)周辺に農村集落(在)を、農村の商業地域(野町)、漁村(浦)の商業地域(浦町)、寺社門前町等を配置しました。
お寺は、川の向かい側にありその周辺にも当時の町並みが残っており(中郡北地区)、知覧島津氏の墓地もその地区のはずれに残っています。
麓では、今の行政組織である御仮屋を中心に馬場(大路)をつくり、この馬場を挟んで武家屋敷を形成し、随所に筋(小路)を通しました。この真っ直ぐ伸びている道路を城馬場通りといいまして、鹿児島城下への往来に使われていました。
知覧の武家屋敷がこのような形に整備されたのは、18世紀中頃といわれています。
この武家屋敷群は当時のままの形で残されています。
その中の7庭園が昭和56年2月に「名勝」として、国の文化財指定を受け、さらに11月にこの麓地区18.6haが重要伝統的建造物群保存地区に選定されています。
また、この城馬場通りの780mは昭和61年に建設省が指定した「道の日」にちなんで選定した「日本の道100選」にも、優れた環境で美しい景観が残されているということで、選ばれています。
知覧では、歴史的建造物や景観の保全に充分配慮しながら、電柱の撤去や排水溝の埋設、通りの石垣や生垣、庭園の白土との調和を量るためのカラー舗装などにより、歴史的環境を生かしたまちづくりを進めてまいりました。
これまで見て頂きましたように本町の庭園の作りは、土を盛り上げてその上に住まいや庭を作るとか、石組みによる枯れ山水とか、魔よけのヒンプンと呼ばれる石塀とか、琉球・中国の影響と思われるものが非常に多く見受けられます。
突き当たりに石を立てたものが見えますが、あれは石敢当と言いまして魔よけの石と言われています。琉球・中国に多く見られるそうです。
この突き当たりにある、小さい方の石が石敢当、大きい石の方(馬の尻を叩きつけたような石)は耳塚ではないかと言われています。