知覧の戦争遺跡


太平洋戦争末期の沖縄戦において人類史上類のない爆装飛行機もろとも敵艦に体当たりした陸軍特別攻撃隊員の遺影、遺書、遺品、記録など貴重な資料を収集・保存・展示して、当時の真情を後世に正しく伝え、世界恒久の平和に寄与するものです。

開館時間:9:00~17:00(入館は16:30まで)
休館日:年中無休
入館料:大人500円・小中学生300円
問い合わせ:知覧特攻平和会館(TEL:0993-83-2525)

ホームページ: http://www.chiran-tokkou.jp/


知覧平和公園内に新たな駐車場を整備したことに伴いまして,公園内と周辺の車両通行の経路が変更になります。周辺を通行する場合は,案内表示に従い,安全運転をお願いいたします。
詳しくは,下の添付書類(PDF書類)をご覧ください。

~変更点~

【知覧平和公園交差点から桜並木に進入した場合】

・知覧文化会館をご利用の場合は,従来どおり直進

・知覧特攻平和会館,陸上競技場,体育館などをご利用の場合は,文化会館前駐車場に直進せずに右折し,100メートル先の駐車場出入り口を左折

(ただし雨天時の知覧特攻平和会館入館は,文化会館駐車場に駐車しアーケードをご利用できます。)


三角兵舎跡 空襲を避けるため飛行場から少し離れた松林の中に三角兵舎が造られました。三角兵舎は、半地下式木造のバラック建てで、屋根には偽装用の幼木をのせていました。ここで特攻隊員たちは出撃までの数日間を過ごしたのです。現在、その跡地には三角兵舎跡の石碑が建てられています。また、特攻平和会館の隣には、復元された三角兵舎があり、当時を偲ぶことが出来ます。
現在はきれいに整備されています。


給水塔跡 飛行場には台地にあるので水の確保に苦労しました。町の麓を流れる思い川から取水しポンプアップして高架式のタンクに貯水しました。戦時中は真っ直ぐ立っていましたが、地盤が悪かったため、現在ではピサの斜塔の様に少し傾いています。

高さは約13m、直径は約6mあります。


どのくらいの高度で飛行機を接地させればよいのかを体感させる施設の一部です。
当時の飛行機は両翼と機体後方の三カ所に車輪がつき、三輪とも同時に接地させる3点着陸でした。うまく着陸できないと、機体がバウンドし、機体を傷めたり、搭乗員が鞭打症になりました。

約150m先に櫓(やぐら)があり、そこからワイヤーを引き簡易な練習機を滑車で滑らして訓練しました。


飛行演習は飛行場の周辺を飛ぶ場周飛行、宙返りなどの特殊飛行などを経て、射撃訓練も行いました。

その射撃訓練用の機銃弾が入れてありました。


練習機の潤滑油やグリースなどを保管した倉庫です。壁面には荒々しい円錐状の窪みが何箇所も刻まれています。これは、昭和20年3月以降、米軍の空襲を受けた時の傷跡です。


防火用の水槽で、もともとは3基ありました。残る1基が私有地にあったため、平成16年に現在の場所へ移築されました。
お椀型に地面が掘られ、直径は約10mあります。


木造の建物があり、参謀など司令部要因が詰めていました。現在の空港で言えば管制塔のような役割を担っていました。


山頂からは飛行場跡を一望でき、はるか彼方には開聞岳を眺めることができます。戦時中はこの基地から多くの特攻機が飛び立ち、米軍からの度重なる空襲を受けました。当時は死闘が繰り広げられた場所ですが、飛行場は長い年月のうちに畑や住宅地に変わっていきました。そのため、現在の景色から当時の情景を想像するのは難しいと思います。


コンクリート製半地下式の壕で、特攻機から送られた無線の受信や各飛行場との連絡を行いました。

戦後、爆破されたため痕跡はありませんが、跡地には石碑が建立されています。


掩体壕とは、「コ」の字型に土塁を築き、近くに爆弾が落ちた場合でも、その破片及び爆風から飛行機を守るためのシェルターです。
 土塁の高さは戦闘機などの小型機用でも4m以上はとっていたので隼(Ⅲ型甲の全高は約3.2m)も十分覆われるようになっていました。
 昭和20年以降、飛行場は空襲の標的にされていたので知覧に進出すると機体はすぐに掩体壕内に格納され、雑木の枝で偽装されていました。

現在は、公園化され、飛行機のレプリカも設置しており、平和学習の一環でも多くの方が訪れています。


第3攻撃集団の司令部として使われた壕がこの山の斜面に掘られていました。
空襲が激しくなったため、昭和20年6月頃に川辺町の西之原に移転しました。


航空機は精密機械のようなもので常時の日常点検と定期的なオーバーホールが必要です。
分廠では、オーバーホールや湖沼きの修理、補給部品の製作など難易度の高い整備を行いました。

現在の国指定史跡、知覧城跡にあります。

※写真は、知覧城跡石碑です。


知覧基地が米軍の爆撃を受けるようになって、現在の薩南工業高校に陸軍病院が設けられ、護衛戦隊ならびに飛行場大隊の負傷者の治療を行いました。

空襲が激しくなったので知覧町郡の豆漬と知覧小学校西側の自彊学舎に移転しました。

航空機の部品を製作するための鉄工所がありました。
現在は、製材所となっています。
現在残る便所や事務所も多少の手直しはありますが、当時の建物をそのまま使っています。

聖ヶ浦には、第2次世界大戦末期に悪化する戦況のなか、昭和20年本土決戦に備え、海軍125震洋隊が配置されました。
震洋の由来は「太平洋を震撼させる」からといわれています。
出撃が行われる直前に終戦を迎え、幸いにも隊員約180名は無事にこの地を離れました。
「震洋艇」の構造は、ベニヤ張りのモーターボートにトラックのエンジンを積み、艇の先端部分には爆薬を載せたものでした。スピードは42km程と伝えられています。
敵の船めがけて隊員ごと体当たりするいわば人間兵器です。
鹿児島県内では、坊津、片浦、野間池、長崎鼻、喜入など18カ所、全国に114カ所、中国・台湾・フィリピンまで含めると146カ所に基地が作られました。